2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公は、幕末の幕臣・小栗忠順(おぐり ただまさ)です。
「小栗上野介(こうずけのすけ)」という呼び名なら、聞いたことがある方もいるかもしれません。
教科書にはほとんど出てこない人物ですが、アメリカを見て日本の近代化に力をつくし、最後は新政府軍に首をはねられました。まるでドラマのような、波乱の一生です。
この記事では、放送前に知っておきたい小栗忠順のことを、年表や表を使ってやさしく紹介します。
この記事でわかること
- 小栗忠順は何をした人か
- 主な功績(アメリカ行き・横須賀製鉄所など)
- なぜ「逆賊」とされ、処刑されたのか
- 家族のその後と、死後の評価
小栗忠順とは?3行でわかる人物像
ひと言でいうと、幕府の中から日本の近代化を進めた人です。生涯は、次の3行にまとめられます。
- アメリカへ渡り、進んだ工業の力に驚いた
- 帰国後、横須賀に製鉄所をつくり、幕府のお金や軍の立て直しを進めた
- 新政府軍と戦うよう主張して役職を外され、最後は処刑された
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 読み方 | おぐり ただまさ |
| 別の呼び名 | 小栗上野介(こうずけのすけ) |
| 生まれた年 | 1827年(文政10年) |
| 生まれた場所 | 江戸の駿河台(いまの東京都千代田区) |
| 亡くなった年 | 1868年(慶応4年)、42歳(数え年) |
| 身分 | 旗本(将軍に直接仕える家臣) |
| 主な役職 | 勘定奉行、外国奉行、軍艦奉行など |
| お墓 | 東善寺(群馬県高崎市倉渕町) |
| 大河での配役 | 松坂桃李さん |
「上野介」ってどういう意味?
「上野介」は、朝廷からもらう役職の名前です。上野国(いまの群馬県)の役人という意味ですが、江戸時代には実際の仕事はなく、いわば「肩書き」のようなものでした。
小栗ははじめ「豊後守(ぶんごのかみ)」と名乗り、のちに「上野介」に改めています。
小栗忠順の主な功績
小栗がしたことをひと言でまとめると、「アメリカで見たものを、日本でもつくる」です。主な功績を、起きた順に紹介します。
1. アメリカへ渡る(1860年)
1860年、小栗はアメリカと結んだ条約を正式に認め合うための使節団に加わりました。役目は「目付(めつけ)」で、使節団の行動を見守る監督役です。
アメリカではお金の交換の割合について交渉し、帰りは大西洋・インド洋を回って、地球を一周して帰国しました。
「ねじ」を持ち帰った話
小栗はワシントンの造船所を見学し、鉄を自在に加工する技術に驚きました。そして記念に、1本の「ねじ」を持ち帰ったと伝わっています。
小さな部品を、正確に、たくさんつくる力。それこそが日本との大きな差だと、小栗は感じたのでしょう。
2. ロシアの軍艦と交渉する(1861年)
帰国後は、外国との交渉を受け持つ「外国奉行」になりました。このころ、ロシアの軍艦が対馬(長崎県)に居座る事件が起き、小栗は現地でロシア側と直接交渉しています。
幕府に強い対策を求めましたが聞き入れられず、小栗は自分から役職を辞めてしまいます。正しいと思ったことは曲げない、それが小栗の生き方でした。
3. 横須賀製鉄所をつくる(1865年〜)
小栗のいちばん大きな功績が、横須賀製鉄所です。フランスの力を借りて、横須賀(神奈川県)に建設を始めました。製鉄所といっても、実際には船をつくり、直すための大工場です。
費用は4年がかりで240万ドルという、幕府の一大事業でした。工場には、次のような新しい仕組みも取り入れられています。
- 西洋式の帳簿のつけ方
- 毎月決まった額を払う「月給」
- 残業した分の手当
建物だけでなく、働き方まで新しくしたのです。
4. 幕府のお金と軍を立て直す
小栗は、幕府のお金を管理する「勘定奉行」を何度も務めました。いまでいう財務大臣のような役職です。
苦しい財政をやりくりしながら、フランスから先生を招いて、陸軍をフランス式に改めることにも取り組みました。
5. 会社やホテルをつくる
外国との商売で日本の商人が損をしないよう、大坂の商人からお金を集めて「兵庫商社」をつくりました。これは日本で最初の株式会社といわれています。
また、日本で最初の本格的なホテルとされる「築地ホテル館」も、小栗が言い出して建てられました。
ドラマではここに注目
アメリカで「ねじ」を手にする場面は、ドラマの見せ場になりそうです。対馬の事件のように、正しいと思えば役職さえ捨てる小栗の姿にも注目です。
勝海舟との違い
ドラマで小栗のライバルとして描かれるのが、勝海舟です(演じるのは大沢たかおさん)。2人とも幕府の家臣で、同じ年にアメリカへ渡りましたが、最後は正反対の道を選びます。
| くらべる点 | 小栗忠順 | 勝海舟 |
|---|---|---|
| アメリカへの渡り方 | アメリカの軍艦ポーハタン号で | 日本の船・咸臨丸(かんりんまる)で |
| 力を入れたこと | 工場など、ものづくりの土台 | 海軍の人づくり |
| 新政府軍への態度 | 最後まで戦う | 戦わずに従う |
| その後 | 1868年に処刑 | 明治の新政府でも活躍 |
将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が選んだのは、勝の「戦わない道」でした。この選択が、2人の運命を分けることになります。
なぜ「逆賊」と呼ばれたのか
理由をひと言でいえば、新政府にとって、小栗は「いちばん手ごわい相手」だったからです。役職を外されてから処刑されるまでは、わずか4か月足らずでした。
「戦うべきだ」と主張して、役職を外される
1868年1月、幕府軍は京都の近くで起きた鳥羽・伏見の戦いに敗れました。江戸に戻った将軍・徳川慶喜の前で、小栗は「最後まで戦うべきだ」と強く訴え、新政府軍を迎え撃つ具体的な作戦まで示したといわれます。
しかし慶喜は、勝海舟たちの「戦わない道」を選びます。そして1月15日、小栗は役職を外されました。
群馬の村へ移り、捕らえられる
アメリカへ逃げてはどうかと勧める人もいましたが、小栗は断り、自分の領地だった群馬の権田村(ごんだむら)へ移りました。いまの高崎市倉渕町(くらぶちまち)です。
村では東善寺(とうぜんじ)というお寺に住み、静かに暮らそうとしていたと伝わります。ところが閏4月4日、新政府軍の命令を受けた兵が東善寺を囲み、小栗を捕らえました。
誰に、どこで処刑されたのか
捕まってわずか2日後の閏4月6日、小栗は村を流れる烏川(からすがわ)の河原で、家来3人とともに首をはねられました。この場所は「水沼河原(みずぬまがわら)」と呼ばれています。
きちんとした取り調べは、なかったとされます。捕らえたのは、新政府軍の原保太郎(はら やすたろう)らでした。
処刑の理由としては、次のようなものが挙げられています。
- 大砲や銃を集め、反乱を企てている
- 幕府の大金を隠し持っている
けれども、どちらも確かな証拠は示されていません。
家族はどうなったのか
妻の道子(みちこ)は、そのとき身ごもっていました。小栗の母や養女とともに村人に守られて会津(福島県)まで逃げのび、そこで娘の国子(くにこ)を産んでいます。
一方、養子の忠道(ただみち)も捕らえられ、処刑されました。残された家族の暮らしは、三井の大番頭・三野村利左衛門(みのむら りざえもん)が生涯にわたって支えたといわれます。
年表で見る小栗忠順の一生
小栗が活躍したのは、アメリカから帰ってからの、わずか8年ほどです。
- 1827年 江戸の旗本の家に生まれる
- 1849年 道子と結婚する
- 1860年 アメリカへ渡り、地球を一周して帰国。外国奉行になる
- 1861年 対馬でロシアの軍艦と交渉。のちに外国奉行を辞める
- 1862年 勘定奉行になる(このあと何度も就任)
- 1865年 横須賀製鉄所をつくり始める
- 1867年 フランス式の陸軍づくりが本格的に始まる
- 1868年 1月に役職を外され、3月に権田村へ。閏4月6日に処刑される
※月日は、当時のこよみ(旧暦)です。
死んだあとの評価と「埋蔵金」の伝説
「逆賊」として命を落とした小栗ですが、明治になると、その仕事を高く評価する人が次々に現れます。
明治の有名人たちの言葉
- 大隈重信(おおくま しげのぶ)
明治政府の近代化は、小栗の考えをまねたものにすぎない、という意味の言葉を残したとされます。 - 東郷平八郎(とうごう へいはちろう)
日露戦争の日本海海戦で、日本の艦隊を率いた人です。1912年に小栗の家族を招き、海戦に勝てたのは小栗が横須賀に造船所をつくってくれたおかげだと、お礼を伝えました。 - 司馬遼太郎(しば りょうたろう)
作家の司馬遼太郎は、小栗を「明治国家の父の一人」と書いています。
横須賀で育った技術や人材は、明治の日本の産業を支えました。新しい日本の土台の多くは、小栗が幕府の中でつくっていたのです。
赤城山の「徳川埋蔵金」伝説
小栗には、「幕府の大金を、群馬の赤城山に埋めた」という伝説がつきまといます。テレビの発掘番組などで、何度も話題になってきました。
この噂は、小栗が捕まった理由のひとつともいわれます。でも、埋蔵金があったという証拠は、今も見つかっていません。幕府のお金を任されていた人だからこそ生まれた伝説、といえそうです。
大河『逆賊の幕臣』の見どころ
ドラマは2027年1月10日から放送されます。主演は松坂桃李さん、脚本は安達奈緒子さんです。
史実を知っておくと、次の3つの場面がぐっと楽しめます。
- アメリカでの体験
ねじを手にした小栗が、日本のために何を決意するのか。 - 勝海舟との対立
同じアメリカを見た2人が、なぜ正反対の道を選んだのか。 - 権田村での最期
役職を外されてから処刑されるまでの、4か月足らずの日々。
よくある質問
小栗忠順は何をした人ですか?
幕末の幕臣で、日本の近代化を進めた人です。横須賀製鉄所をつくり、幕府のお金や軍の立て直しを担いました。
小栗忠順は、なぜ処刑されたのですか?
新政府軍と最後まで戦うよう主張した、抗戦派の中心人物だったからです。反乱を企てたという疑いもかけられましたが、証拠は示されていません。
誰に、どこで処刑されたのですか?
1868年閏4月6日、新政府軍に捕らえられ、群馬県高崎市倉渕町の「水沼河原」で首をはねられました。
妻や子どもはいましたか?
妻は道子です。小栗の死後、身ごもっていた道子は会津へ逃れ、娘の国子を産みました。
徳川慶喜とはどんな関係でしたか?
慶喜に仕えた家臣です。戊辰戦争では最後まで戦うよう進言しましたが、慶喜は戦わない道を選び、小栗は役職を外されました。
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- 小栗上野介と徳川埋蔵金伝説|赤城山に埋めた話は本当?

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